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今や、テレビは誰も見ていない?現代の家族像とテレビ番組

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先日「なぜ最近のテレビCMは「うざい」のか?YouTube広告が変えた生存戦略と記憶の箱の奪い合い」という記事を書きました。この記事はその続編として、テレビ番組について書いています。

今や、テレビは「誰も見ていない」というのはやや大袈裟かもしれませんが、テレビを観ない人、本当に多いです。私のまわりでも、地上波を見るためのテレビは処分したとか、ネット動画が見られるスマートテレビがあれば十分、という友人が多くいます。そこには、「崩壊したお茶の間」の現実とテレビ業界が陥った終わらない悪循環があるように思えます。

今、テレビを観ているのは「どんな人」だと思われているのか?

メディアが追いかける「お茶の間」という幻影

かつてテレビは、お茶の間の中心に鎮座する絶対的な王様でした。スイッチを入れれば、勝手に面白い情報が飛び込んでくる。私たちはその「受動的な心地よさ」に身を任せていればよかったのです。

しかし、オンデマンドで「観たいものを、観たい時に、観たいだけ」消費できるネットの快感を誰もが知ってしまった今、テレビの前に座り続ける人の層は確実に変化しています。現在、地上波のリアルタイム放送を熱心に追っているのは、「受動的に情報を流し聞きすることに抵抗がない層(高齢者層など)」や「タイパ(タイムパフォーマンス)をそこまで重視しない層」です。

送り手側は、いまだに「お茶の間で家族全員がぼんやりと画面を見つめ、同じタイミングで笑っている」という昭和・平成初期の幻影を追いかけている節があるのではないでしょうか?ここに大きな「ズレ」が生じています。

昔と同じようなテレビ番組の作り方が現代では通じないのです。

同じ空間で別々の画面を見る家族の現実

我が家のリビングを振り返ってみても、現実に広がっているのはまるで違う景色です。テレビの画面には人気バラエティ番組が映っていますが、本当に「誰も見ていない」のです。妻はタブレットでドラマを追いかけ、子どもはスマホでYouTubeのショート動画を高速スワイプし、私はといえばSNSのタイムラインを眺めている。

テレビという「環境音」を中央に据え置きながらも、家族がそれぞれ自分の画面に引きこもり、別々の世界に没入している。かつて一家団欒の象徴だったテレビは、今や「誰も見ていないのに、消すと寂しいからついている、ただの騒がしい家具」へと姿を変えてしまいました。送り手側の「想定」と、私たちの「現実」の溝は、深まるばかりです。

コンプライアンスなき時代の「強烈なテレビ」への追憶

あの頃のテレビはもっと自由で、もっと「不謹慎」だった

少しだけ、昔話をさせてください。「コンプライアンス」なんていう、いかにもお行儀の良い言葉が影も形もなかった昭和や平成の初期。あの頃のテレビは、今思えば狂気とも言えるほどのエネルギーに満ちあふれていました。

アポなしで海外の首相に会いに行ったり、芸人を数ヶ月間どこかに監禁して懸賞生活を送らせたり。特撮映画さながらの本物の爆破が何発も炸裂する番組なんかもありました。

今そんな企画を立ち上げようものなら、放送開始3分でSNSが大炎上し、翌朝には関係者が真っ青になって謝罪文を発表するレベルの代物ばかりです。しかし、だからこそ「強烈に面白かった」のもまた、紛れもない事実です。

終わらない悪循環と、YouTubeの真似をするテレビの「怠慢」

現在のテレビ業界は、笑えないほどの悪循環に陥っています。

「面白いテレビ番組を作るのが難しい」→「誰も見なくなる」→「予算が減り、さらに番組がつまらなくなる」という負のループです。

YouTubeのおもしろ動画を並べただけ、ワイプの中で芸能人が「えぇ〜!!」なんて。そんなスマホの画面でも見れるような特番を視聴者は求めていないのです。

最近は、地上波のテレビ番組もTVerなどでスマホで観れるようになりました。私は、これもテレビ番組がYoutube的な番組に変化している要因のように思えます。

スマホで見られるような番組を、わざわざテレビ局が莫大なインフラを使って作っていても、それはテレビの優位性を何も生み出せていません。ネットのコンテンツをそのままテレビに持ち込む安直さは、皮肉にも視聴者のテレビ離れをさらに加速させ、ネットへと追い返しています。今こそテレビ局は、「YouTuberには絶対に真似ができないこと」をやるというスタンスに立ち返るべきではないでしょうか。

YouTuberが真似できないテレビ局の優位性

「報道の正確性」という、何十年もかけて築いた最後の砦

YouTuberがどれだけ登録者数を増やそうとも、逆立ちしても手に入らないもの。それが「報道の正確性と社会的信頼」です。

ネットの世界は、良くも悪くも「スピードとインパクト」が最優先され、真偽不明のフェイクニュースや偏った情報が飛び交う不確実な海です。一方で、テレビ局が持つ報道部門には、何十年もの歴史のなかで培われた取材網、裏付け調査の徹底、そして放送法という厳しい社会的責任が課されています。 大規模な災害が起きたとき、あるいは国家を揺るがすニュースが走ったとき、私たちが最終的にチャンネルを合わせるのは、やはりテレビの報道番組です。この「正確性があるもの、信頼があるからこそ伝えられる事実」は、個人には絶対に担保できないテレビ局だけの強力な優位性なのです。

「アルゴリズムの波」に縛られない、圧倒的な時間投資の暴力

もう一つの優位性は、制作にかけられる「時間とリソースの桁違いのスケール」にあります。

YouTuberの多くは、数日から数週間、長くても数ヶ月のサイクルで動画を制作・投稿し続けなければ、容赦のない「アルゴリズムの波」に置いていかれ、視聴者の画面から存在ごと消し去られてしまいます。常に打席に立ち続けなければならない彼らには、一つの企画をじっくり寝かせる時間がありません。

ここに、テレビが勝てる最大の隙があるのです。テレビ局には、一つの事件、一人の職人の人生、あるいは特定の社会問題を「3年」「5年」と追い続けるドキュメンタリーを作る体力があります。アルゴリズムに急かされることなく、圧倒的な「時間の投資」によって紡がれる深く濃厚なコンテンツは、個人のスピード感では逆立ちしても真似ができません。

私たちが本当に求めているのは「知的で静かなテレビ番組」ではないのか?

私が心から切望しているのは「知的で静かなテレビ番組」です。

プロのカメラマンが切り取った息をのむほど美しい映像と、音響設備をフルに活かした良質な音楽、そして本質的な教養や旅の空気感だけで、静かに画面を満たしていく。 これは、スマホの小さな画面とチープなスピーカーで消費されることを前提としたネット動画には、絶対に真似できない「テレビというメディアならではの贅沢」です。

ネットの騒がしさに疲れ果てた大人が、一日の終わりに「あぁ、こういうのでいいんだよ」と静かに引き込まれる。そんな番組に振り切ることこそが、テレビがもう一度、力を取り戻し、誰も見ていないという不名誉な現状を打破するための唯一の突破口なのかもしれないと私は思うのです。

AO3(あおさん)/ 32mm 管理人

昭和生まれのアラフィフのええおっさん。ガジェット、キャンプ、食をテーマに、大人のこだわりを探求。実体験に基づいた、日々の生活を少しだけアップデートするヒントを発信中です。GR4の抽選販売に申し込みましたが、外れたようです。懲りずにまた次回!